祇園祭、踊り町での「本町自治会」出し物は、龍踊り、こども神輿、道踊りである。
【龍踊り】は、江戸時代(享保年)徳川吉宗の頃「長崎おけい」と言う貿易商が中国より長崎経由で彼杵に伝えたものでないかと言われています。
その後今から70年ほど前本町の下町に住んでいた古老数人で龍を作り彼杵宿郷の青年達により龍踊りとして奉納されたと伝えられています。
戦後昭和30年頃新たに、長崎くんちの龍踊りを見学研究し彼杵独特の「龍踊り」として現在に伝え続けられています。
  1、由来
紙谷庄一の口伝によると、長崎へ茶を移出していたころ、彼杵へ古龍を持ち込み 龍踊りが始まったのが享保年間、今から二百七、八十年も前のことという。 日露戦争の戦勝祝いの演し物として、その後も数回の出演をみたが、大正はじめの 不況以来長く中断していた。
昭和八年川添好冶が十七歳の時、丁子屋の酒蔵二階で、古龍と銅鑼、鉦を発見、 当時三名の龍使いがいたので、古龍を修理して、この人達を中心に祇園祭に出演 して復活できた。
当時は蜘蛛の図柄のはっぴに鉢巻、白短パン、マラソンたびや布靴をはき、龍は 七人もちで踊っていたという。
日中戦争が始まって、再び中断したが、戦後復活の気運のさなかに、折りよく 昭和二十三年、嬉野町制十周年記念行事への出場要請があった。 これを機会に、長崎の籠町へ七、八名の青年を派遣し、龍踊りの白水棟梁から、 本格的の指導をうけた。その結果大任を果たす事が出来たが、この頃が全盛で、 これ以降三年おきに祇園祭に出演し、現在に至っている。

2、概要
雲の上の黄金の宝珠を龍が追いかける様子を、大太鼓、銅鑼、シンバルの三種の 囃子と爆竹のなかで、「タマモチ」と「龍衆」が演じる。

3、構成
「1」 行列先頭には、「タマモチ」が支柱の上につけられた直径の金色の宝珠をもって行く。 次に、関近三「手造り」の精巧な龍頭を一、八m、の支柱で支えた「頭もち」 がつづく。「頭もち」の交代要員は、三名である。胴はは布製で長さ約遺一0m、 紙製のうろこには緑に銀色の緑どり、腹は赤黄白で支柱九本がつき「龍衆」がもって三交代制をとる。 鳴り物の大太鼓は、昔は二人担ぎ(今は車)で「打ち手」一名、銅鑼は「打ち手」 二名の二交代制で、以上はおとながあたる。シンバル五組は小中学生の男子が受けもつ。 龍声ラッパはないが、囃子だけは昔からの「そのぎ囃子」が伝承されている。

4、組織
そのぎ本町約八十世帯で維持し、諸経費は寄付と「お花」でまかなっている。
(1) 世話人七名。責任班長七名
(2) 総指揮二名。玉使い指導者二名。龍踊り指導者三名。 囃子方指導者三名。龍管理責任者一名。
(3) 龍踊り玉使い手二名。頭使い手六名。 龍衆四十名。囃子方十名。
(4) 出演者合計八十余名、全員男性 (平成三年龍模様入りのハッピを新調)

5、 主な出演
祇園祭へ三年おきに出演
昭和十五年十一月彼杵町制十周年記念式典
昭和二十三年嬉野町制十周年記念式典
昭和三十四年十月長崎諏訪神社にて出演
昭和五十五年十月そのぎ神社御遷座百周年記念式典
昭和六十二年二月長崎県ライオンズクラブ大会

【参考文献: 】