日本二十六聖人とは、西暦1597年2月(慶長元年)、長崎の西坂でキリシタン宣教師、信徒であるという理由で処刑された、日本最初の殉教者のことです。

天正15(1587)年、豊臣秀吉は筑前の箱崎で、長崎の地がイエズス会に寄進されているのを聞き激怒して、はじめてキリスト教の布教を禁止しました。

その後、慶長元(1596)年、イスパニア(スペイン)船サン=フェリペ号が土佐に漂着した際、船員の一人が、キリスト教の布教はその地を植民地化する前触れであると伝えました。
それを聞いた秀吉は、キリスト禁令をさらに厳しくし、同年十一月にペトロ・バウチスタはじめ京都、大阪にいた宣教師・信者二十四名を捕え、耳をそぎ、大阪、堺の町を引き回しました。
処刑は当時信者の多かった長崎で行うこととなり、陸路を徒歩で、あるいは馬で、1日7〜8里をゆっくりと殉教者を歩かせました。

翌年、1月9日、堺を立った24人のキリスト教信者達は、姫路、岡山、広島を通り、1月31日博多に到着、翌日、肥前名護屋近くの村、山本で捕らわれ人は26人となり長崎へと進みました。やがて、苦しい登りの道を越えて大村領の俵坂峠にたどりつくと、足もとに湖のような静かな大村湾の素晴らしい景色が広がっていました。
そこで休憩したペトロ・バウチスタは、岩の上に腰をおろして黙想しました。今…死地へ向かって進んでいる。しかし自分が全身全霊を傾けた布教は始めたばかりなのに、それを継ぐべき同僚までも死んでいく。ペトロ・バウチスタがすべてを捧げた仕事は、がらがらと崩壊していくかに思われ、とめどもなく涙が落ちました。

昼も過ぎころ、殉教者は彼杵へはいりました。
やがて、殉教者のうちフランシスコ会士以外は両手を縛られ、彼杵の浜辺に降りると、そこには三艘の船が繋いでありました。それぞれの船に乗せられた殉教者達は、水路時津へと向かいました。空には、残月が光り始め、岸のあちこちに漁村の灯火がまたたき、舟は、単調な櫓の音を響かせながら、静かに水面を分けていきました。翌2月5日、26人の殉教者達は、長崎西坂の地で処刑されました。

1862年6月7日、荘厳な祭典のうちに教皇ビオ9世は、西坂の26人の殉教者を聖者の列に入れました。

聖人 キリシタン
殉教者

イエズス会














フランシスコ会

     
 
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