| 応仁の乱(1467〜)後の戦国時代、上彼杵村は佐賀との境界にあって、たびたび他国の軍勢が攻めてきました。
周辺の集落、中尾・恵比寿丸、西坂本、大黒丸、菅無田、東坂本、高吉、釜の内の8カ所の乙名は重城を築き、数々の外敵の侵入を阻みました。
この八人を上彼杵八人乙名といいます。
乙名とは、読み書きができ、優れたリーダー的な存在である、いわばま集落の長のこと。
ちなみに、それぞれの集落の八人乙名は次の通りです。

◆ 重城の攻防
ある時、大内軍が俵坂を越えて、彼杵地方に攻め入ってきました。八人乙名は、彼杵の地侍と団結し、重城に立てこもりました。
300人の彼杵軍に対し、十倍3000人の大内軍。
見くびった大内軍は、渓谷を深入りして、細長く重城を包囲しました。
しかし、この様子は、重城からは丸見えの状態。
大内軍の陣形において、本陣の守りが手薄であることを見抜くと、地の利を生かして回り込み、大内軍を打ち破りました。
この時の戦いにちなんで、大内軍が深入りしたところを「深入り」、討ち取った首を埋めた「首塚」、陣形をとったところを「大内田原」と呼ぶようになりました。
◆ 弁財天の由来
天文2(1533)年、周防の国、大内義隆の軍勢が重城を攻撃しました。この際、西坂本の乙名山口勝慶が戦死。15歳になる娘は捕えられて、人質となりました。
2年後、無事に帰郷した娘は道端に千体の石仏を並べ、炭銭を生めて神仏に感謝しました。
江戸時代、道路の拡張工事のため、石仏が壊されたので、文化3(1806)年、大黒丸の乙名山口久助が由来を彫って碑を建立しました。
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