そのぎといえば、近代「お茶」と「くじら」で有名な町ですが、江戸時代、その「くじら」で一躍有名な偉人が生まれました。

それは、深沢儀太夫兄弟、その人において他にはありません。

深沢儀太夫は、そのぎ地方の捕鯨はもちろん、私財を費やして、そのぎの開発に貢献した兄弟です。

初代、深沢儀太夫勝清は、武雄市芦原の出身の人物です。30歳の頃、紀州(和歌山県)の太地浦で捕鯨の方法を学び、大村に来て鯨組を組織、西彼杵から五島方面で捕鯨を行って、巨万の富を築きました。

勝清は、その資金力をもって地元の開発を手がけたのです。
まず手始めに、千綿川から水を引くことに力を注ぎました。

一口に水を引くといっても、山を切り開き、岩を取り除き、時にはトンネルを掘ってと大変な作業の連続。しかし、傾斜地の多いこの地に水田を開くためには、一年を通して水をたたえる灌漑用水が必要でした。

当時の大村藩主純長は、勝清の献金によって、新田開発・寺社の運営、道路拡張の大事業を次々と達成し、平似田郷の三木場堤はその一つです。
寛文3年(1663)年、後を継いだ弟の勝幸も新しい捕鯨を学び、新田開発に富を傾注。蕪堤、中堤、鹿丸堤を築き、蕪郷・中岳郷で水田を開発しました。
これらの灌漑用水地は、今でも豊かな水をたたえ、深沢兄弟の偉業を象徴しているのです。

 

そのぎ地方の鯨についても少し触れてみましょう。

彼杵港は、江戸時代・明治・大正を通じて、西肥前の有数の鯨肉中継地でした。五島灘や玄海沖で捕れた鯨は用途別に処理され船便で、外洋ものは下関から鉄道便で問屋に卸されました。この下に仲買・小売人がいて販売組織がつくられ、竹籠に入れた鯨を売り歩く娘姿も見受けられました。販路は長崎県、佐賀県はもちろん、九州北半分に広がっていました。




 

鯨組 捕鯨




 

純長(大村純長)



 


     
 
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