本陣や脇本陣はなく、茶屋が立てられ、諸大名が通行する時の小休憩所に当てられた宿場です。(この茶屋は酒屋を兼ねていました)。 万治2(1659)年、当宿に駅場が置かれ、大村城下町と彼杵の両宿からの荷物をここで継ぎ立てましたが、文政年間(1818-1830)に廃止されました。 宿場の中央部に氏神八幡神社があり、別当という旧家(伊東家)が残っていて、戦国時代大村氏の勢力圏に入るまで、松原地頭として伊東家が支配者でした。 また松原の地名は、江戸時代中期まであった、松林の続いた磯の浜辺にあったと推測されます。 当地は松原鍛冶という刃物の産地です。伝承によると、壇ノ浦の戦いで破れた平家の有名な刀匠 波平行安の一派が平安末期にこの地に移り住み、文明6(1474)年に八幡神社の境内で刀鍛冶を始めたのが始まりと伝えられます。
大村家16代純伊が中岳の合戦で破れ、流浪の末文明6(1474)年に帰還した時、領民が祝典で初めて踊ったとされるのが、この郡三踊(寿古踊・沖田踊・黒丸踊)です。 この踊りのうち二つは、法養という浪人が教えたといわれています。 室町時代芸能の序破急に忠実であり、それぞれ寿古踊が序、沖田踊が破、黒丸踊が急の3つで一まとまりとなっています。 殿様踊といわれ優美な寿古踊、なぎなた踊といわれる沖田踊、最後に直径4.8m重さ60kgの大花輪を背負って太鼓をたたく黒丸踊と続きます。
明暦3(1657)年、大村地方で起きた潜伏キリシタン発覚事件です。 事の起こりは、大村藩郡村矢次に住む百姓の兵作が、長崎の酒屋町の指物屋池尻理左衛門に「矢次の村には、天草四郎に勝るような少年がいる」ともらし、驚いた理左衛門は乙名に伝え、乙名は長崎奉行所に知らせました。これが発端となり、大村藩では郡村を中心に萱瀬村や千綿村までに渡り探索され、キリシタン603人が芋づる式に捕らえられました。あまり多いので、大村・長崎・佐賀・平戸・島原の5ヶ所に分けて牢に入れられました。それぞれ取り調べられ、打ち首406人、牢死78人、永牢20人、赦免99人という結果となりました。 これをきっかけに、大村藩では厳重なキリシタン禁制がしかれ、寺請け制度、五人組制度、絵踏みなどが行われるようになりました。 この関連の史跡として、処刑される人と家族が最後に水杯を交わしたという「妻子別れの石」、処刑が行われた「放虎原斬罪所」、処刑された人々の首をさらした「獄門所」、生きかえることを恐れて死体の首を切断し500m離して別々の場所に埋めた「胴塚」や「首塚」などがあります。
寛文4年から、千葉卜枕が開拓し、寛文6(1666)年開拓した放虎原の鎮守の氏神として、大村館にあった祇園社を移しました(現八坂神社)。当時の境内は約750坪の広さがありました。街道には今でも桜馬場という地名が語るとおり、桜並木が続き、旅人の目を楽しませたといわれています。
彼杵郡最古の神社であり、彼杵郡全体の総産土神であったと思われます。 福田村(現長崎市福田)に居住した福田氏に対して皇天宮祭礼の被役を義務付けている点からも、彼杵郡全体に信仰を及ぼしたことが分かります。当時は、今の郡中学校南側付近にありました。天正2(1574)年のキリシタン社寺焼き討ち事件により焼失しましたが、御神体は嬉野に難を逃れ、慶長年間(1596-1615)に現在の場所に再興されました。
旧長崎街道松原宿のほぼ中央部に位置する神社です。 「正慶2(1333)年に、江串村の江串三郎入道後醍醐天皇の皇子尊良親王を奉じて江串で挙兵した際に、援軍を集めるためにこの八幡神社の『錦の戸張』を旗にして大村に駆け回った」という伝承があります。 かつて、この松原一帯は、鎌倉幕府の御家人であった工藤左衛門尉祐経が源頼朝より与えられた所領でした。その管理のために関東より伊東家が派遣されました。このとき源頼朝の鎌倉鶴岡八幡の分霊を祭ったと考えられます。 天正2(1574)年、キリシタンの寺社焼き討ちにあい焼失しましたが、寛永12(1635)年に大村武部の丘、後年旧社地に再建されました。 11月中旬に行われる秋期大祭は「松原くんち」として大変賑わいます。
大村市の北部、松原、福重、竹松の三地区は特に「郡(こおり)」と呼ばれ、今でも弥勒寺・立福寺などお寺の字名が地名となってたくさん残っています。それは、東に多良の秀峰を臨み、中央を流れる郡川の沃野の広がったこの地に千二百年前、仏教文化が繁栄していたことの名残といわれています。 郡七山十坊は奈良の都になぞらえて出来たといわれています。 郡七山十坊の「七山」には特に意味はなく、名刹といわれる大きなお寺が十ヶ所あるという意味であろうと推測されます。 松原に延命寺・妙光寺、福重に弥勒寺・立福寺・冷泉寺・東光寺、竹松に極楽寺・本来寺・浄宮寺がありました。 天正2(1574)年に、キリシタンによる焼き討ちに遭い、すべての寺社が焼失しましたが、慶長7(1602)年に、深雲山妙宣寺がつくられました。 妙宣寺にはかつての延命寺の標石が残り、またキリシタンがこの寺を破壊しようとして裏山から投げたという丹投石が境内に残っています。
寛文元年に、捕鯨長者 深澤儀太夫勝清がつくった灌漑用の人工湖です。 周囲4km、容量140万トンで、小判4200両と1年7ヶ月の時間を費やして作られたと伝えられます。 郡岳山麓一帯は、郡川の急流で洪水の害、日照りが続くと旱魃の害と、農業には向かない土地でしたが、この湖ができたおかげで水の供給は安定し、松原、福重地区の田畑は山間部にいたるまで水田がつくられるようになりました。 現在でも、春に堤防の横で儀太夫に感謝するお祭りが行われています。